この記事では現在でも多大な影響を及ぼす偉大なグループ「ビートルズ」のアルバム「アビイ・ロード」発売後~ビートルズ解散を含む12枚目のアルバム「レット・イット・ビー」発売ぐらいまでの流れを大まかに書いています。
アルバム「アビイ・ロード」発売後のビートルズ
アルバム「アビイ・ロード」発売から遡った1968年10月、「ホワイト・アルバム」のレコーディングが終了。
ホワイト・アルバムのセッション中にビートルズを一時的にだったものの脱退するという一大事件を起こしたリンゴは、レコーディングで疲れた心を癒すように休暇を取りサルジニア島へ旅立ちました。

ジョージは、アップルのお抱えアーティストのジャッキー・ロマックスのアルバム・プロデュースをするために渡米。
そのような経過があり同10月に行われた「ホワイト・アルバム」のミックス・ダウンと選曲は、ジョンとポール、そしてジョージ・マーティンに任せられました。
もう一度原点にゲット・バック
年が明けて翌年の1969年1月2日、ポールの発案「もう一度原点にゲット・バックしよう」の呼びかけの下、再びビートルズの4人は集まりました。
今回のコンセプトは、新曲をリハーサルし、その新曲だけでコンサートを行い、それをライブ・レコーディングしようという企画でした。
コンサート活動には本当にウンザリしていたジョージは別でしたが、意外にもこのコンサート企画にジョンは乗り気だったようです。
コンサートを行う場所の候補として、豪華客船やサハラ砂漠のど真ん中、イタリア、ローマのコロシアム…と奇想天外なアイディアが飛び交っていたようです。
ですが結局、非現実的なアイディアだけでは実現は困難と判断され、ビートルズのリハーサル風景とラスト・コンサートをクライマックス・シーンとして撮影するという企画が決定されました。
悲劇的なセッション…
この企画は初めから暗雲が立ち込めていました。その原因は様々あったと言われていますが、その一つ挙げられているのが、ホームであるアビイ・ロードスタジオではなく、トゥイッケナムのフィルム・スタジオでリハーサルをしたことがよくなかったのでは?と言われています。音楽専用スタジオではないトゥイッケナムでは、ビートルズのメンバーが満足のいくサウンドを得ることができなかったからです。
それに加えて、ただでさえ寒い1月のロンドンに、がらんとしたトゥイッケナムは余計に寒さを感じたようで、これではとてもリラックスした状態で演奏に打ち込める環境ではありませんでした。
このような状況下、次第にメンバーのフラストレーションが募り、ホワイト・アルバムで苦境を乗り越え再び結束したかのようにみえたメンバーの仲は、またしても危機に陥りました。

後にジョンはこのゲット・バック・セッションを「地獄」と、ジョージは「史上最悪」、そしてリンゴは「悪夢」と回想しています。
この状況下、ひとり意気盛んなポールは、メンバーをまとめようと懸命に仕切ろうとしますが、これも裏目に出てしまったようです。
ただ、この行き詰った状況の中、ポールは「レット・イット・ビー」「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」といった後世に名を残す名曲を生み出すことになります。
フィルムに記録されたのは悲劇的な解散劇
映画「レット・イット・ビー」として発表されたこの記録フィルムを撮影したのは、1966年に「ペイパー・バック・ライター」のプロモーション・ビデオを撮影し、すでにビートルズのメンバーと顔見知りだったマイケル・リンゼイ=ホッグでした。
この映像の中で話題を呼んだのがジョージとポールの口論のシーンでした。ジョージにとってはカメラの前でポールにあれこれと指図を受けることはさすがに自尊心が傷つくものだったことは想像に難くありません。
ジョージは「ミュージシャンとしてプレイする自由がなくなってきている。息が詰まりそうだ」と語り、さらに「喧嘩のシーンまで撮影するなんてたまったものじゃない」とも語ったそうです。

そして、撮影がスタートしてから1週間余りの1月10日に我慢の限界に達したジョージは「また、どこかのパブで会おう」と言い残して、スタジオを出ていきました。ジョージが抜けたことで必然的にこの企画は頓挫することになりました。
このリハーサルでビートルズは、100曲以上も演奏しましたが、レコーディング用のマルチ・トラックではなく、放送用の2トラック・テープが使用されたため、ここで録音された音源はアルバムには到底使用できないクオリティだったそうです。
ジョージと話し合いの場を持つ
1月22日、ビートルズの3人はジョージに会いに行き、話し合いの場を持ちました。結果、ジョージも気を取り直して「コンサートはやらない」という条件のもとで、ビートルズに復帰しました。
そして、この日から自社であるアップル・ビルに新たに設置したスタジオでリハーサル撮影が再開されました。
ジョージはたまたま近所にいたビリー・プレストンを見つけ、ビートルズのセッションに誘いました。実はビートルズとビリーは、1962年のハンブルグ巡業のときからの知り合いだったため、ビリーとビートルズのメンバーはすぐに打ち解けます。
外部からビリーというミュージシャンが参加するという刺激と、自分たちのスタジオでの撮影に次第にビートルズはバンドとしての結束を取り戻しつつありました。
オルガン奏者のビリー・プレストンが加わったことは、ビートルズに新しい刺激と可能性をもたらしたといっても過言ではないでしょう。
伝説のルーフ・トップ・コンサート
そして、1月30日に行われたアップル屋上でのライブ「ルーフ・トップ・コンサート」は伝説となりました。
「ルーフ・トップ・コンサート」で演奏された曲は
- ゲット・バック
- ドント・レット・ミー・ダウン
- アイヴ・ガッタ・フィーリング
- ワン・アフター・909
- ディグ・ア・ポニー
- ゴット・セイヴ・ザ・クイーン
他に「アイ・ウォント・ユー」もつま弾かれていました。

ビルの下の路上にひとだかりが出来てしまい、交通渋滞が起こったため、警察が出動。「演奏をやめろ」という警官に対しビートルズは黙々と演奏を続けました。
後にポールとリンゴは「いっそのこと逮捕してくれればよかったのに。だって最高のエンディングだろ?」語っています。

1966年8月29日のラスト・コンサート以来、久しぶりに聴衆?の前でおよそ42分間のパフォーマンスをしたビートルズの姿は映画の後半のクライマックス・シーンを飾っています。
アルバム「レット・イット・ビー」のサウンド
ビートルズが原点回帰のバンド・サウンドを目指したということで、ライブ感があるアルバムには仕上がってはいるものの、このニュー・アルバムは、長年ビートルズをプロデュースしてきたジョージ・マーティンではなく、1950年代にウォール・オブ・サウンドで一世を風靡したフィル・スペクターがプロデュースを一任されたため、これまでのビートルズのアルバム・サウンドとは異なる仕上がりになりました。
スペクターに依頼される以前にも、フィルム撮影時の音楽監督だったグリン・ジョンズ(ザ・ローリング・ストーンズのサタニック・マジェスティーズなどのプロデューサー)に依頼されましたが、ビートルズのメンバーが納得する音には仕上がりませんでした。
そして、当時「ゲット・バック」という名前になる予定だったニュー・アルバムは放置されることとなり、その間にもビートルズは解散への道を進んでいました。
ポールのビートルズ脱退宣言~解散へ
リンゴとポールはソロ・アルバムを完成させ、4月10日にポールがビートルズ脱退宣言をマスコミに発表する直前の3月23日に、ジョンがフィル・スペクターに「レット・イット・ビー」となるアルバムのプロデュースを依頼しました。
ジョンは「どうしようもないセッションをうまくまとめてくれた」とスペクターに賛辞を贈りましたが、もともとこのアルバムの最終ミックス・ダウンをどうするのかなどを、ジョンに相談を受けていなかったポールは「レット・イット・ビー」や「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」の過剰なオーケストラやコーラスの導入に嫌悪感を示しました。
1970年4月10日、ついにポールはビートルズ脱退をマスコミに発表。諸説ありますが、この日が実質的にビートルズが解散した日と言われています。
5月8日、映画公開に先駆けてアルバム「レット・イット・ビー」が発売。全英チャートで8週連続、全米チャートで4週連続1位に輝きました。

コメント