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ビートルズ・ストーリー(サード・シングル~セカンド・アルバム「ウィズ・ザ・ビートルズ」発売)

ビートルズ ビートルズ・ストーリー
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この記事では現在でも多大な影響を及ぼす偉大なグループ「ビートルズ」のサード・シングル~セカンド・アルバム「ウィズ・ザ・ビートルズ」発売ぐらいまでの流れを大まかに書いています。

ビートルズのデビュー・アルバム発売後

精力的にスケジュールをこなすビートルズ

ビートルズはデビュー・アルバム「プリーズ・プリーズ・ミー」のレコーディングを終え、地元リヴァプールでのライヴ活動をしながら、当時、天才と謳われていたシンガー「ヘレン・シャピロ(当時16歳)」とのツアーに参加していました。ツアーの主役は「ヘレン・シャピロ」であり、ビートルズはそのサポート・バンドのひとつに過ぎない存在でした。

しかし、ツアーが回をを重ねるごとにビートルズの独特のサウンドとエネルギッシュなステージに観客も気づき始めて、次第にビートルズが目当てという観客も増えてきて、ビートルズはツアーのオープニング・アクトから前半のトリ(主役級)にまでなりました。

フロム・ミー・トゥ・ユー

精力的にライヴやツアーをこなす中で、ビートルズはサード・シングルとしてリリースされる「フロム・ミー・トゥ・ユー」を生み出します(ツアーのバス移動中にジョンとポールが作ったといわれている)。1963年4月11日、英国でサード・シングルとしてリリースされた「フロム・ミー・トゥ・ユー(B面はサンキュー・ガール)」は、全英チャートで6週連続1位というヒットに輝きます。

「フロム・ミー・トゥ・ユー」には、イントロからハーモニカが入っているもの(モノラル)とイントロのハーモニカがカットされている(ステレオ)バージョンがあります。

人気が高まっていくビートルズ

サード・シングルがヒットしたビートルズは、メンバーも敬愛するロックン・ロール・スターである「ロイ・オービソン」や、当時売り出し中のシンガーなどとのツアーを重ねるうちに、次第にメインの座を奪うほどの人気となってきました。

またツアーだけでなく、ライヴ、ラジオ出演、テレビ出演とハードなスケジュールをこなします。このようなビートルズの努力は報われ、人気の反映とともに有名なロイヤル・アルバート・ホールに出演するなど、これまでよりも大きなステージをこなすようになります。

この頃、ビートルズのラジオ番組「ポップ・ゴー・ザ・ビートルズ」も始まります。番組を聴いた(初回放送で約280万人)リスナーの反応は「すごくよかった」という高評価から「ただの不快な騒音だった」という不評なものまでさまざまなものがありましたが、「反応がある」ということは、良くも悪くも多くの人々にビートルズのインパクトを与えたこととなり結果は上々といったところでした。

セカンド・アルバムのレコーディング開始

ハードなスケジュールの中の1963年7月18日、セカンド・アルバムのレコーディングが始まります。セカンド・アルバムでもファースト・アルバムと同じコンセプト「ライヴの雰囲気をレコーディングする」は引き継がれます。

レコーディング初日に演奏された曲は「ユー・リアリー・ゴッタ・ホールド・オン・ミー」「マネー」「デヴィル・イン・ハー・ハート」「ティル・ゼア・ウォズ・ユー」のカヴァー曲4曲で、この4曲はすでにライヴでのレパートリー曲であったため、レコーディングはスムーズに進んだようです。

カヴァー曲とオリジナル曲のアルバム比率

ファースト・アルバムのコンセプトを踏襲は、カヴァー曲とオリジナル曲のアルバム比率(カヴァー曲6:オリジナル曲8)についても引き継がれました。

すでに多忙であり人気もそこそこ出始めたビートルズならば、すでにライヴで演奏している曲だけでアルバムを埋めてしまうという手段もあったハズですが、「引退後は作曲家としてやっていきたい」と語っていたジョンやポールはオリジナル曲を7曲を用意。さらにジョージ・ハリスンも記念すべきデビューとなる1曲「ドント・バザー・ミー」提供することになりました。

当時としては考えられないアルバム曲構成

当時の音楽業界では「売れているシングル曲をアルバムに収録して購買意欲をそそる」のが常でしたが、このセカンド・アルバムには「アルバムにシングル曲は入れない」というマネージャーのブライアン・エプスタインとプロデューサーのジョージ・マーティンの取り決めがあったようでアルバムにシングル曲は入っていません。

セカンド・アルバム発売前後のヒット・シングル曲、3枚目シングル「フロム・ミー・トゥ・ユー(1963年4月11日)」4枚目シングル「シー・ラヴズ・ユー(1963年8月23日、B面はアイル・ゲット・ユー)」5枚目シングル「抱きしめたい(1963年11月29日、B面はジス・ボーイ)」はこのアルバムには収録されていません。

また、ビートルズのセカンド・アルバムに収録されたオリジナル曲の8曲中5曲は後にも先にもライヴで演奏されることはありませんでした。

「シングル・ヒット曲が収録されていない」「ライヴで演奏されないオリジナル曲複数」というアルバム構成は、当時「単に(ヒット曲を含む)曲をたくさん収録しただけのレコード」と思われていたアルバムの常識を覆したといってもいいでしょう。

「アルバムにシングル曲は入れない」という取り決めは、「ファンに余計なお金を使わせないため(ヒット曲だけでも聴きたいファンのため)」だったと言われています。確かにシングルとアルバム(昔はLPレコードと呼ばれていた)では、購入する際の値段の差が大きいので、良心的と言えますね。

初期ビートルズを印象づけるモノクロのアルバム・ジャケット

ジョン、ポール、ジョージ、リンゴの4人の顔が半分影で映し出されたモノクロのアルバム・ジャケットは、カラーがもてはやされた当時としては異彩を放っていました。カメラマンはロバート・フリーマン。元々ジョンが連れてきてすでにメンバーと親しい間柄となっていた人物でした。

顔が半分影(ハーフ・シャドウ)の手法は、ビートルズがハンブルグ巡業時代に知り合った、アストリット・キルヒヘルというカメラマンが得意としていた手法で、それをフリーマンに頼んだと言われています。

レコード会社のEMIは、このモノクロのジャケットにダメ出しをしたようですが、プロデューサーのジョージ・マーティンとマネージャーのブライアン・エプスタインが「ビートルズにはモノクロのイメージがふさわしい」と譲らなかったようです。

結果的に、このセカンド・アルバム用に撮影されたモノクロのアルバム・ジャケットは、初期のビートルズを印象づける大きな役割を果たします。このアルバム・ジャケットは後に米国での実質的デビュー・アルバム「ミート・ザ・ビートルズ」、そして日本でのデビュー・アルバム「ビートルズ!」にも使用され、「ビートルズといえばコレ!」というまさにビートルズの代表的なイメージとして世界中の人々に印象づけられていきます。

「ウィズ・ザ・ビートルズ」リリース

ビートルズのセカンド・アルバム・タイトルは「ウィズ・ザ・ビートルズ」。1963年11月22日にリリースされ、ビートルズのファースト・アルバム「プリーズ・プリーズ・ミー」に取って代わり全英チャートで22週連続1位に輝きました。

このアルバム「ウィズ・ザ・ビートルズ」は、予約注文だけでも当時としては記録的の30万枚あり、その後も売り上げは伸び続け1965年にはミリオン・セラーとなりました。

「ウィズ・ザ・ビートルズ」というアルバム・タイトルは、まさにこの後、「世界がビートルズとともに歩んでいく」ということを予感させるタイトルとなっていますね。

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